有給や残業代を請求しづらい職場のメカニズムと対処の選択肢
有給休暇や残業代を請求しづらい空気が漂っている職場が存在します。
請求を承認する立場の上司が原因であることもあれば、特定の誰ということではなく全体的な雰囲気として、自分の権利を請求しづらい場合もあるでしょう。
有給休暇や残業代を請求することは労働者の正当な権利です。会社は、合理的な理由なく有給休暇の請求を拒否してはいけませんし、不払い労働などもってのほかです。
にも関わらず、未消化の有給休暇もサービス残業も現実の問題として存在し、しばしばメディアに取り上げられています。
この「権利を請求しづらい」という現象を検証し、私達にはどのような選択肢があるのかについて考えてみましょう。
職場を覆う特殊政治的な社会秩序
組織があるところには、通常複数の社会秩序がせめぎ合うように存在しています。
社会秩序は「何が善いことで何が悪いことなのか」という価値判断や、「どういう時にどのような行動をとるべきなのか」という規範について、その秩序を共有する人間の思考や行動に影響を与えます。
自由の尊重や法の支配といった普遍的価値を重んじる市民社会の社会秩序や、利益最大化のために能率を高めることを善とする営利的な社会秩序など、職場には様々な社会秩序がそれぞれの濃度を持って併存しています。
さて、上記の社会秩序のモデルを使って考えると、有給や残業代の請求がはばかられるような職場、権利請求がしづらい職場は、ある特殊な社会秩序の濃度が支配的なレベルにまで濃くなっている職場であると考えることができます。その職場を支配している特殊な社会秩序において、個人の権利を請求することは「悪いこと」になっているのです。
では、そのような特殊な社会秩序とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
共同体主義的社会秩序
個人の権利を請求することを「悪いこと」であるとする、特殊な社会秩序のひとつに、共同体主義的社会秩序があります。
会社組織では、たまたま同じ時期に同じ会社で働いているだけの赤の他人同士が、生活がかかっている深刻な利害関係の網の目の中に、お互いに埋め込まれています。
そこで、「お互いに裏切られないように」「お互いに信頼して働けるように」というニーズから、コミットメント関係の形成が促進されます。コミットメント関係とは、特定の相手との継続的な関係性や情緒的な関係性のことです。
そして、コミットメント関係という共同体への忠誠心を絶えず表明することが求められ、共同体に忠誠を尽くすことが「善いことである」とされるのが、共同体主義的社会秩序です。
共同体主義的社会秩序において、もっとも重要なのは共同体の結束です。共同体のメンバーは、自分が全人格的に共同体に忠誠を誓っていることを表明し続けなければいけません。「どのように忠誠心を表現すべきか」という具体的な方法は、職場によって異なるでしょう。ただ、典型的な日本の大企業では、プライベートの時間を削って共同体のメンバーと飲みやゴルフに明け暮れたり、個人の権利を放棄してサービス残業を行って共同体に奉仕したりすることが、忠誠心を表現する方法であり、「善いこと」であるとされます。
したがって、有給休暇や残業代を請求することは、共同体への忠誠をないがしろにして個人の権利を過剰に要求する「悪いこと」になります。さらに、有給休暇や残業代の根拠になっているのは労働基準法という、市民社会の社会秩序を守るための論理ですから、共同体のメンバーの目には「あいつはウチらとは違う論理で動いている=悪いことをしている」というように映ることになります。
共同体主義的社会秩序に染まった人々は、個人の権利を求める人を見ると被害者意識を持ち、激しく憤慨します。自分たちが「善いもの」として尊重している共同体を、「個人の権利」などという「ソトの論理」で汚されたと感じるためです。
したがって、「先に仕掛けてきた」者である権利請求者に対して攻撃を加えるようになったり、不利に扱うようになったりします。権利請求者を攻撃する人々は自分が被害者だと感じているため、攻撃は復讐の性格を帯びています。だからこそ、徹底的で執拗な攻撃が行われ、エスカレートしがちなのです。
もちろん、職場には上記の社会秩序に内心疑問を持っている人もいるでしょう。むしろ、心の底から共同体主義的社会秩序に染まりきった人の方が少数派のはずです。
しかし社会秩序は、「こういう行いは悪いことだ」「こういう行いを見たら怒らなければならない」というように、個々人に対して「何をすべきか」を命じる規範として作用します。個々人がプライベートに「別に有給休暇ぐらい良いんじゃないか」と思っていたとしても、共同体主義的社会秩序が覆っている社会環境では、共同体の「良きメンバー」であるためにパブリックには共同体への忠誠を示すように行動するべきであると感じるのです。
対処の3つの選択肢
選択肢1:沈黙
1つ目は「沈黙」すること。すなわち、共同体主義的社会秩序が支配している現状を認め、その中で働き続けるということです。
共同体主義的社会秩序が支配している社会環境で、その社会秩序を共有しない人間は攻撃されてしまうことは既に説明しました。社会秩序を共有しなければ、嫌がらせを受けたり、出世のチャンスから阻害されたりすることになります。
したがって、沈黙を選択した場合、多くは共同体主義的社会秩序を共有するメンバーに参加し、自身もまた忠誠心競争ゲームに取り組むことになります。自分の価値観と、共同体主義的社会秩序が示す価値観との矛盾が大きい場合、これは大きなストレスになります。
しかし一方で、自分さえ我慢すれば現状維持できるという点では、沈黙は最も穏当な選択であると言えます。後述する他の2つの選択肢は、否応なく将来の不確実性を高めますから、そういったリスクを取らなくて良いというのはメリットになります。
したがって、共同体主義的社会秩序が支配的であるとはいえ、そこまで高い濃度に達していない場合や、共同体主義的社会秩序と自分の価値観との矛盾が小さい場合には、沈黙を選択することが合理的になることが多いでしょう。
選択肢2:離脱
2つ目は「離脱」。要するに転職するということです。
労働市場の流動化に伴い、以前に比べれば転職はしやすくなりました。
離脱は共同体に対する明白な「裏切り」と感じられますから、当然ながら共同体主義的社会秩序に染まった人々の反感を買います。「ここを辞めるようじゃ、どこに行ってもやっていけないぞ」「そんな無責任な考えが通用すると思っているのか」など、攻撃的な態度を取るのが典型的な反応です。
ですが、この世には共同体主義的社会秩序が濃い会社もあれば薄い会社もあるのは自明なことです。確かに、さらに強力に共同体主義的社会秩序に支配された会社に転職してしまう可能性もありますが、そうじゃない可能性も当然あります。
というより、何もくじ引きで転職先を選ぶわけでは無いのですから、共同体主義的社会秩序の支配の弱い会社を探して転職活動をすれば良いだけです。現象のメカニズムさえ理解できれば、あとは個人の選択の問題なのです。
また、労働者が会社に対して負う責任は労働基準法において明文化されています。退職を告げなければならない期日などに一定の条件はありますが、転職は自由です。共同体主義的社会秩序において「重罪」だろうと何だろうと、営利企業の内部の理屈よりも公権力の定める法令が優先されるのは当然ですから、転職は無責任でも何でもありません。
以上より、年齢や技能、貯金の多寡など、転職活動が有利な条件が揃っていればいるほど、離脱を選択することのメリットが大きくなるでしょう。
選択肢3:発言
3つ目の選択肢は「発言」することです。
沈黙して耐えることもできないが、かといって離脱もしたくないという場合、共同体主義的社会秩序の支配を脱するために自分自身が声をあげるしかありません。昔から夢だった職業についていたり、転職が難しい状況にある人は、発言を選択することが考えられます。
しかし、発言によって状況を変えるのは最も困難な道であることを覚悟しなければいけません。
まず、「共同体」に対する裏切り行為と見られる点では離脱と変わりありませんから、自分と同じように発言を選択する人が居ない限り、周囲の人の協力は期待できません。それどころか、攻撃の対象になる可能性も多分にあります。
それでも変革を起こそうとすれば、強力な権力を持つ少数の人間を説得するしかありません。自身が社長や取締役に意見できる立場であればまだ可能性はあるのかもしれません。ですが、そもそも共同体主義的社会秩序を容認し、そこから利益を得ているのがその会社の経営者なわけですから、基本的には黙殺されます。
労働基準監督署などに内部告発することで変革を起こせる場合もあります。ただし、よほど悪質な違法行為が横行していなければ、公権力も安易に介入するわけにはいきません。また、介入があれば社内で「犯人探し」が行われる可能性が高いでしょう。共同体主義的社会秩序の論理で「犯人」と思われる人物が特定され、攻撃の対象になる可能性があります。その対象は自分かもしれませんし、無関係な誰かになるかもしれません。
つまり、合理的には成功の可能性が低いのが発言という選択肢の特徴なのです。また、共同体への明白な裏切り行為を行ったわけですから、失敗した際には出世が望めないばかりでなく干される見込みも大きくなります。
こうした事実を考慮して、それでもなお「この会社で働きたい」「この職業を愛している」という情熱がある場合にのみ、発言に成功の可能性が生まれるのかもしれません。
最後に書き添えておくと、最悪なのは中途半端に発言することです。
中途半端な覚悟で発言しても、ほぼ間違いなく失敗します。ここで挙げた3つの選択肢の中で最も苦しい状況に陥るのが「発言を選択して失敗した場合」であることをよく考えましょう。
本気の覚悟がないのであれば沈黙か離脱を選択するのが、自分自身のためでもあり、家族のためでもあります。
参考文献
内藤 朝雄(2001)「いじめの社会理論」柏書房
山岸 俊男(1998)「信頼の構造」東京大学出版会
A.O.ハーシュマン(矢野 修一訳)(2005)「離脱・発言・忠誠」ミネルヴァ書房