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失敗が許されない組織の何が問題なのか?

失敗が許されない組織の何が問題なのか?

失敗を許さない風土の組織が存在します。

失敗した人はひどく叱責されたり、出世の道を絶たれたりします。

果たして失敗はそんなに悪いことなのでしょうか。失敗を許さない組織は、一見するとプロ意識の高い集団のように見えますが、そこに問題は無いのでしょうか。

失敗が許されない組織の問題について、詳しく検討していきましょう。

権力の濫用

失敗を許容しないという風土が、「部下の失敗を利用した上司の憂さ晴らし」を助長していることがあります。

これは、あくまでも「業務遂行の必要性」から上司に与えられているに過ぎない権力を、私的な目的に濫用したものです。部下を潰す上司の心理については別の記事で詳しく分析していますので、そちらをご覧ください。

上司の目的は失敗の是正による正確性や効率性の向上にはありません。むしろ部下が失敗し続けてくれた方が失敗を厳しく執拗に攻撃することができて、憂さ晴らしには好都合です。

結果として、いつまでたっても失敗を是正するための建設的な施策は実施されず、会社の利益は損なわれ続けます。部下は疲弊し、やがて休職や転職の形で会社を去るでしょう。パワハラ問題として公的機関やマスコミ、SNSなどで訴え出るかもしれません。

権力を濫用する上司のために、会社は貴重な人材を失うことになり、さらに訴訟リスクや社会的制裁のリスクまで負うことになります。

この問題の本質的な原因は権力を濫用する上司の存在にありますが、失敗を許容しない風土が触媒となって事態を悪化させるのです。

失敗の中立性

次に、失敗が許されない風土それ自体が本質的な原因である問題について論じます。

本題に入る前に、「失敗」とは何かについて改めて考えてみましょう。

ノルマの未達や交渉の決裂、納期の遅れ、チェックの漏れなど、仕事には様々な形の失敗が存在します。

私たちは「失敗=悪いこと」と直感的に感じてしまいがちですが、冷静に考えるとそんなに単純なものではないことが分かります。

そもそも失敗とは、「何らかの事物・現象についての人間による評価」に過ぎません。事物・現象それ自体が「失敗」ということはあり得ません。何らかのタイミングで、何らかの基準による「評価」が行われた結果として、「これは失敗だった」という判断が下されるのです。

失敗それ自体が人間の評価に基づく判断ですので、その失敗をどのように取り扱うのかという問題も人間の自由に任されています。失敗を「挑戦した証拠」として前向きに捉えるのも自由ですし、「次に活かそう」と慰めるのも自由です。

したがって、失敗が許容されない組織というのは、様々な選択肢がある中でわざわざ「失敗は許容しない」という選択をしている組織であるということになります。

失敗が許されない官僚制

失敗を許容しないという選択をしがちな組織の代表例は「官僚制組織」です。

ここで言う「官僚制組織」は、官公庁の「官僚組織」とは異なる概念です。公的機関か民間企業かを問わず、「官僚制」の組織は存在します。

官僚制の組織は通常ピラミッド型の階層構造になっています。ピラミッドの頂点に君臨する単独あるいは少数の意思決定権者のために、ピラミッドの残りの部分が効率的かつ正確無比に業務を遂行する「精密機械」のような組織です。

したがって、官僚制組織は上意下達のトップダウンを旨としています。「トップ」の役割は意思決定であり、「ボトム」すなわち「官僚」たちの役割はトップの決定に基づいて最大能率で業務を遂行することです。このために業務は細分化され、個々の業務に特化した専門家である官僚たちの分業制が取られます。

また、効率的で正確無比な業務遂行のために合理的計算と文書主義が重視されます。標準化が官僚制の合言葉です。客観的な計算によって予測される利益のための企画が、決まりきった書式の文書によって伝達され、マニュアルに従って実践され、成果は決められた指標によって計測されます。全てが標準化されているため、十分な能率を発揮できない人材はいつでも「交換可能」です。理想的な官僚制組織においては「まず業務ありき」であり、そこに誰が割り当てられるのかは「パーツの品質は十分か否か」といった程度の問題に過ぎません。

さて、上記のような官僚制の傾向が強い組織においては、失敗が許容される余地はありません。「効率的で正確無比な業務遂行」という官僚制組織が最も重視する価値は、「失敗」によって真っ向から否定されてしまうためです。

失敗は官僚制組織そのものの存在理由に直結する急所であり、許容することはできません。失敗の責を負うことになった人物はピラミッドの上方への昇進の道が絶たれるか、「不良品」として組織から除外されてしまうでしょう。

なお、本稿の趣旨からは少し外れますが、官僚制組織は「優れたトップ」と「無能なボトム」の構図を前提としています。したがって、官僚制組織で生じた失敗の責は「無能なボトム」の誰かに負わされることが必然的に多くなります。明らかにトップが失敗したとしても、「優れたトップでさえ成功させることができなかった」わけですから、誰がトップの責任を追求できるでしょうか?

失敗の創造性

ここでまず確認しておかなければならないのは、官僚制それ自体は別に悪いものではないということです。官僚制組織は効率的に業務遂行するための単なる道具、あるいはアイデアであって、それ自体について良いも悪いもありません。

また、最初に確認したように「失敗」それ自体をどう取り扱おうと自由です。官僚制組織において失敗を許容しないというのであれば、それはそれで自由です。

しかし、失敗を許容しないという態度には、官僚制組織の存続そのものを危うくしてしまうという致命的な問題があります。

繰り返し述べているように、官僚制組織の真髄は「効率的かつ正確無比な業務遂行」にあります。一方で、変化への適応や知識の創造は苦手としています。

比較的変化の少ないビジネス環境で、形式的な業務を遂行する点では圧倒的な能率を発揮する官僚制組織ですが、次々に変化していく環境に適応するために自ら知識を創造し、姿を変えていく柔軟性を持ち合わせてはいません。

失敗が生じる典型的な場面は、新しいことに挑戦した時や、ビジネス環境に変化が生じてこれまでの手法が通用しなくなった時です。組織に新しい可能性が生まれようとしている兆候、あるいは組織が変化することができるかを問われている危機の兆候が失敗なのです。

よほどの大企業グループか公社でも無い限り、不確実性の低いビジネス環境は現代において存在しません。にも関わらず官僚制を徹底し、失敗を許容しない風土が貫徹されてしまえば、その組織からはもはやイノベーションを望むことができず、その硬直性ゆえに環境の変化に取り残されてしまうでしょう。

失敗を真摯に受け止め反省することは大切です。しかし、それが「失敗は悪」「失敗は許容されない」という態度にまで先鋭化したとき、組織は衰退を始めるのです。

参考文献

内藤 朝雄(2001)「いじめの社会理論」柏書房
マックス・シェーラー(飯島 宗享ほか訳)(1977)「シェーラー著作集4 価値の転倒(上)」白水社
野中 郁次郎、竹内 弘高(梅本 勝博訳)(1996)「知識創造企業」東洋経済新報社


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