仕事はできるけど嫌な奴の正体とは?
仕事はバリバリこなし、上司からの信頼は厚いものの、仲間からは評判の悪い人がいます。
同僚や後輩に必要以上に攻撃的だったり、さり気なく手柄を横取りしたりと、非常に競争的で野心家なのが特徴です。
彼らはいったいどのような心理構造を有しており、どうしてそのようになってしまったのでしょうか?
彼らを理解するために、そして自分自身が「嫌な奴」にならないために、そのメカニズムを見ていきましょう。
仕事はできるけど嫌な奴の実像
仕事はできるけど、やたらと他人に攻撃的な人。完全に仕事を生きがいにしていて、家庭や趣味に重きを置く「ワーク・ライフ・バランス」型の同僚を見ると剥き出しの敵意を向ける人。競争心を隠そうとせず、手柄の横取りや他人を蹴落とす策略を平気で実行する人。
程度に差はあれど、上記のような傾向を持つ人は多くの職場に見受けられます。彼は「仕事ができる」と評価されていることが多く、輝かしい実績をあげていたり、チーム内で実質的に最も影響力を持つ人物であったりするでしょう。直属の上司や、時にはその上の上司でさえ、彼の業務能力と会社への忠誠心を頼りにしており、高く評価しています。
しかし、彼と日々一緒に働く同僚や部下、後輩は、少々違った見方をしています。
彼の華々しい業績の少なくとも一部は「他人の手柄の横取り」や「政治的な駆け引き」の結果であることを、同僚や部下たちは知っています。
あるいは、家庭や趣味を持つ同僚に対してとる彼の攻撃的な態度に疲弊しているかもしれません。家族のために定時で帰る人の陰口を言っていたり、趣味を大切にする人には「そんな甘い態度で仕事するな」と叱責したりしています。
したがって、彼を取り囲む人々の態度は大きく2種類に分かれていきます。ひとつは、彼の実務能力と上司からの評価の高さ、そして彼の攻撃の矛先が自分に向かないようにしたいという打算から、彼の「太鼓持ち」になる人々。もうひとつは、彼の露骨な競争心や他人の価値観への干渉に辟易して、「仕事はできるけど嫌な奴だ」と遠巻きに眺める人々です。
生価値の有用価値への従属
仕事はできるのに他者に攻撃的な人物の心理は様々な方法で説明可能ですが、ここではひとつの典型例として「生価値の有用価値への従属」という観点から分析していきましょう。
「生価値」すなわち生命の価値についての自己認識は、人間の精神や行動に重大な影響を与えます。「自分の命は生きるに値する価値があるのか」「価値ある生とはどのようなものなのか」といった問題について、意識的か無意識的かを問わず人は様々な意見を持っています。
人は生価値が損なわれたと感じると無力感や虚無感に襲われます。生価値を損なう原因となった出来事や人物に対して激しい憎悪を覚え、「自分には原因となった人物を攻撃する正当な権利がある」と感じる場合もあります。
さて、自らの生価値をどのように認識し、どのように根拠付けるかについては、人の数だけ方法があります。また、どんな方法を用いようと完全に個人の自由です。そんな中で、「有用であるということが生きる価値があるということだ」と信じる人が一定数存在します。
「高いパフォーマンスを発揮している自分には生きる価値がある」という信念は、「有能でなければ生きる価値が無い」という信念と表裏一体です。
もちろん、生価値の根拠付けのひとつに自らの有能さを挙げる人はたくさん居ます。ここで問題なのは、有能さが完全に生価値に取って代わってしまっているということ、すなわち「生価値が有用価値に完全に従属していること」なのです。
生価値が有用価値に従属するに至ってしまった人にとって、「自らが有能であること」は生きる理由そのものになっています。自分の有能さを絶えず確認していなければ安心することができず、自分の有能さを認めない人物や自分よりも有能と評価されている人物を見ると、自分が生きることを否定されるような激しい被害感情を覚えます。それは憎悪と復讐心に変貌し、「敵の排除」のために攻撃せずにはいられなくなります。
一方で、家族や趣味など、有用価値以外のものに生価値を見出している人々に対しても、干渉せずにはいられません。彼にとっては、常に自分を鍛えあげ、生き馬の目を抜く策謀の世界で勝ち続けることが、生きる価値の証明であり、生きることそのものです。そういった努力や苦労をしていないにも関わらず、家族や趣味に生価値を見出して幸せそうにしている人々は、彼の目には「ズルをしている」ようにしか見えません。したがって、そういった人々を自分と同じ「有用価値の証明」に奔走する人生に巻き込むことは「正しいこと」であり、「教育的」に必要なこととして感じられます。
そのほかの特徴として、生価値が有用価値に従属するに至った人は「数字」に固執する傾向があります。彼は自らの有能さを証明し続けなければいけませんが、「人の評判」というのはなかなか掴みどころがありません。それに比べて、「売上実績」や「貯蓄額」のような「数字」は明確に他者と比較することができ、自分の有能さを確かめるのに好都合です。この傾向が強く現れると、拝金主義のようなフェティシズムに囚われるようになります。
嫌な奴が生じるメカニズム
仕事ができるけど他者に攻撃的で嫌な奴の正体が、「生価値の有用価値への従属」の観点から説明できることが分かりました。
しかし、なぜ彼らはそのような事態に陥ってしまったのでしょうか。
これもまた多様な原因が考えられる大きなテーマです。家庭環境による発達心理学的な説明もできますし、近代的学校教育に原因を求める社会学的解釈も可能です。
しかしここでは、ビジネスの場に焦点を絞りましょう。
会社組織の内部に、彼らを生ぜしめるメカニズムが備わっているとすれば、その代表は「実力主義」の会社風土でしょう。
給与体系や人事考課制度が実力主義的に制定されている会社はもちろんですが、そうでない会社でも実力主義的な価値観がメンバーに共有されている場合があります。
実力主義では個々人のパフォーマンスが最も重視されます。個人の力で、数字という目に見える形で成果を挙げることが至上価値とされ、数字の出せない人材は「不要」で「価値のない」人材であると評価されます。
実力主義が「生価値の有用価値への従属」と同じ根源を持つことは煩雑な説明を必要としないでしょう。
正社員は、日々の時間のほとんどを会社という限られた環境で過ごしています。その会社組織の風土や価値観は、社員の価値観に影響を与えずにはいません。個々の社員が会社に馴染んでいくにつれて、洗脳するように「生価値の有用価値への従属」が促進されていくのです。
この「生価値の有用価値への従属」が促進されることは、仕事はできるけど嫌な奴の価値観に近づくということです。いつのまにか彼の価値観に引きずり込まれ、彼と同じルールで「有能さ競争」や「策略競争」をたたかうことになってしまいます。
したがって、社員個人としては、そのような現象を食い止めるために会社以外の組織との関わりを維持することが重要です。家族はもちろん、趣味の集まりや、昔の同級生とのつながりを保っておくことも有効です。自らの「有能さ」を問われない環境を確保することで、有用価値の専横を防ぐことができます。
一方、チームを率いる管理職や企業経営者は、実力主義的な会社風土や制度が持つ効果を良く理解しておく必要があります。「実力主義」という考え方は、営利企業の営利精神をそのままストレートに表現したものであるように感じられるでしょう。しかし、そのために社員間の協力行動は阻害され、策謀渦巻く険悪な労働環境を生んでしまいかねないのです。また、すでに会社内に存在する「仕事はできるけど嫌な奴」を特定し、彼が他の従業員に攻撃的な干渉をしないように手綱を取ることも、マネージャーや経営者の仕事であることを忘れてはいけません。
参考文献
マックス・シェーラー(飯島 宗享ほか訳)(1977)「シェーラー著作集4 価値の転倒(上)」白水社